2004年

ーーー9/7ーーー 燕岳に登る
 
 燕岳に登った。我が家に一番近い北アルプスの峰である。これで何度目になるだろうか。おそらく今まで一番数多く登った山でもあるだろう。

 山上の季節はすでに夏を過ぎている。この時期の平日に登る人は少ない。夏の最盛期の気狂いじみた混雑が嘘のように、登山路は静かだった。森林限界を抜けるあたりでは、木々の梢の先から紅葉が始まっていた。

 山頂も静かだった。花崗岩の上に座って、目の前に広がる北アルプスの山と谷を眺めた。西から吹いて来る風が冷たかったので、ザックから上着を取り出して着た。そしてまた、眼前の景色を眺めた。

 景色を眺めながら、何も考えていないことに気が付いた。あえて言うならば、何も考えていないということを考えていた。

 若い頃は、山の頂上で景色を眺めながら、様々なことを考えた。感動的なものを目の前にして、何も考えないのは罪悪であるかのように、あれこれ思索をめぐらした。何故自然はかくも美しいのだろうなどと、考えても仕方のないことに執着した。あるいは、記憶を定着させるための手段として、言葉を探していたのかも知れない。

 今回は、そういった思考が全く湧かなかった。それが一つの驚きであった。自らの心理状態が、あまりにも淡々としているので、自分らしくないと感じたほどであった。

 しかし、雄大な景観を前にして、心が動かなかったわけではない。むしろ、今までは気にも留めなかった地味なところにまで自然の美を感じて、楽しかった。

 この出来事も、最近とみに感じる加齢のなせる業なのだろうか。



ーーー9/14ーーー 野球の騒ぎ

 会社勤めをしていた頃、職場の仲間と雑談をしていて、プロ野球の話題になったとき、「ぼくは野球には関心が無い」と言ったら、生意気な後輩が「大竹さんってつまんない人ですね。何がおもしろくて人生やってるんですか」と返してきた。こんな輩を相手にする必要は無いのだが、野球に関する悪い印象がまた一つ増えたことは確かであった。

 私はもともと、選手が試合の最中に椅子に座っている時間が半分もある野球という行為に、スポーツらしさを感じていない。監督やコーチが事細かにサインを送って、選手のプレーをコントロールするのも、どうかと思う。ユニホームも変なデザインである。

 プロ野球にしろ高校野球にしろ、この馬鹿騒ぎぶりは何だと感じることがある。野球は国民的スポーツとされており、それに親しまないのは異端者扱いされる。私に言わせれば、野球の人気は、プロ野球連盟と、高校野球連盟と、マスコミが一致団結して展開してきた大政翼賛会的活動の産物である。プロ野球球団のオーナーとなっている新聞社が、それに拍車をかけていることは間違いなかろう。

 まあこれも自由主義経済社会の一つのビジネスなのだから、仕方がないとも言えるだろう。金持ちを恨んでも仕方ないのと同じで、プロ野球を恨んでも仕方ない。しかし、国営放送(公共放送?)までがスポーツニュースの時間に、プロ野球優先の報道をするのは腹が立つ。一部の者だけの利益に資するような報道は如何かと思う。こう述べれば恐らく、「大多数の国民が関心を持っていることを大きく扱うのは当然」との応えが返ってきそうである。しかし、その大多数の関心とやらを創り出してきたのは誰だったのか。

 不況のせいもあろうが、プロ野球界は今大揺れに揺れている。一方で国営放送の方も詐欺行為が発覚して、国会で証人喚問の騒ぎとなっている。どちらも「我が世の春」に翳りが見えて来たようである。
 


ーーー9/21ーーー サンポーニャ

 
2ケ月ほど前から、サンポーニャという楽器に親しんでいる。南米の民族音楽フォルクローレに使われる楽器で、植物の葦の管の束でできている。ヨーロッパではパンパイプと呼ばれる同種の楽器があり、世界最古の楽器の形と言われている。

 ケーナをやっていることは以前紹介した。そのケーナもフォルクローレで使うものだが、これら二つの楽器は全く違っておもしろい。

 ケーナは一本の管でできていて、穴を指でふさいで音の高さを変える。リコーダなどと同じ構造だが、管に息を吹き込んで音を出すしくみは尺八と同様で難しい。

 サンポーニャは長さの異なる管の一本づつに音が割り当てられていて、管を選んで吹くことによって旋律をとる。音階を構成している発音体を選択して音を出すしくみの楽器は、鍵盤楽器が代表格だが、吹奏楽器ではハーモニカの他にはサンポーニャを含むパンパイプ系しかないだろう。

 ケーナは美しく響く音を得るまでにかなりの修練が必要だが、サンポーニャは比較的簡単に音が出る。しかし、その音はケーナのように鋭く明瞭なものではない。風が当ってふるえるような音色である。そしてサンポーニャは音を繋げるのが難しい。一つひとつの音は出ても、旋律を吹こうとするとたどたどしくなる。そこに独特の素朴な雰囲気が生まれる。ケーナは独奏ではなかなか上手く聞かせられないが、サンポーニャは単独でも味のある表現ができるように思う。

 ケーナもサンポーニャも、林や森などの自然の中で吹くと実にピッタリくる。この秋は楽器を携えて自然の中に入っていこう。そしてひっそりと笛の音色を楽しもう。



ーーー9/28ーーー 中高年登山の幻滅

 実際に山に登っても、テレビの番組で見ても、相変わらず山の上は中高年だらけである。自分もその年令に達していて、他の人から見れば明らかに中高年登山者であろう。しかし私としては、山の上に中高年があふれている現状には、うんざりしてしまう。

 中には気持ちの良い人もおられるから、決めつけるわけにはいかないが、概して騒々しく、無神経で、マナーが悪く、自己中心的で感じの悪いのが中高年登山者である。

 以前ある山小屋に立ち寄って小屋のオーナーと雑談をしたときに、話題が中高年登山ブームになった。中高年の増加によって、山の上で変わったことはないかと尋ねたら、オーナーは、やはりマナーの低下を指摘した。特に登山道に野糞をたれるなどの行為が目立つと。

 夏山シーズンに、北アルプスの稜線上の小屋に泊まったことがある。昼を回った時刻、外は雨で寒く、次から次へと入って来る登山者で小屋の中はごったがえしていた。濡れた装備で立ち尽くしている登山者たちを前にして、中高年の団体が食堂の一角を占領し、ビールなどを飲りながら、声だかに談笑していた。居座ってしまって、動く気配もなかった。他人の窮状に目を向けるどころか、まるでこれみよがしに、早いもの勝ちの優位を楽しんでいるかのようであった。

 こういう連中を見ると、いったい何のために山の上までやって来ているのだろうかと思う。下界の俗塵を山上にまで持ち込んで、何が楽しいのだろうか。山道を登りながら携帯ラジオで高校野球の中継などを聞いている登山者を目にすることがあるが、それに近い幻滅を感じてしまう。

 いろいろな人間の様々な行状は、いちいち気にとめて悩んではきりがないものであるが、下界では仕方ないとやり過ごすことでも、山の上ではことさら気になってしまう。大自然の中に分け入って行く行為である登山には、勇気、情熱、愛、信頼、献身といった言葉が相応しい。そういうことで装いもせず、自分勝手な憂さ晴らしの場を求めて山に登るかのような人々を、私は苦々しい思いで見るのである。
  



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